あきらめ

ふと、あきらめることも大事。

そう思うことがある。

 

バリバリ仕事ができるようになるし、それだけの能力が自分にはあると信じていた。

でも実際はそんなに能力が高くない。

 

誰とでもすぐに打ち解けて、コミュニケーション能力が高く、気のおけない友人がたくさんいるという人生になるものだと思っていた。

でも実際は人間関係が続かない。コミュニケーション能力は高くない。友人とも疎遠。

 

彼女が普通にできて、そのまま結婚して30歳には子どもの一人はいるものだと感じていた。

でも実際は30歳過ぎても独身で、恋愛におっくうになっている。

 

いつまでも理想を高く掲げるのは、夢を見るというよりは無謀である。

この辺できっぱりあきらめて、今の現状を受け止める。

 

仕事の能力はについては、

調整ごと、お願いすることが苦手

白黒つかないものに取り組むことが苦手

淡々とした作業は苦にならない

→苦手なことは早く取り掛かる、上手い頼み方を学ぶ、書いて整理する、先輩後輩に頼む

 

人間関係については、

深い関係を避ける傾向がある

基本的に一人でいたいが、たまに少数の人と会いたい気持ちになる

口下手なので、会話は続かない

複数人での会話が苦手

→行く気のしない複数人の飲み会を徐々に減らす、沈黙でも良いんだと思う、たまにリラックスできる人とのたわいもない会話の機会をつくる

 

恋愛、結婚については

理想が高い

堅く考えすぎる

自分の時間を大切にし過ぎておっくうになっている

→なるべく理想に妥協できるような出会いの機会を設ける

 

 

いいかげん、大人にならないと。。

解決に向けて

漠然とした不安を抱えながら、土日と特に何をすることもなく過ごす。

 

何かしなくてはいけない

このままでいいはずはない

 

だけど

何をしたらいいのか分からない

何かをすれば疲れがたまって月曜日からの仕事にひびく

 

ぼーっとしてあっというまに日曜日の夜。

 

後悔の念に苛まれながらも、仕方がない、これでいいんだという肯定をして少しだけ平常心に戻る。

 

だけど

問題や不安感はまだ残ったまま。

 

解決するには、この漠然としたものを具体化しないといけない。

 

・仕事の問題をどう解決していいのか分からない不安 

・仕事の人間関係が苦手で不安

・結婚できるのか不安

・結婚した後の生活が見えなくて不安

・自分の能力が高くない不安

・この仕事を続けて自分の健康が損なわれないか不安

 

次はこれらの問題個々に解決策を見つけていく。書くことで客観的な解決策が見える。

 

・仕事の問題解決は自分だけでは限度がある。上司や先輩に相談。

・仕事の人間関係はある程度は我慢が必要だが、そこまで付き合う必要もない。

・結婚したいなら、結婚相談所に行ってみる。

・結婚した後の生活なんて誰にも分からない。

・自分の能力が高くないなら、高望みせず相応に働くこと。でないと足を引っ張るだけ。

・体調を崩すまで頑張りすぎないこと。適度に休みは取ること。

 

案外すらすらと書けてしまい、そこまで悩むことではないのでは、と思えてしまう。

 

だけど、自分の能力の低さにはうんざりする。変えたくても変えられないことだらけ。

それが普通なのでは、と最近思うようになってきた。

離人症

このGW、テレビにて、家族でイベントに出かけているという特集をよく見かけた。

たまの連休、お父さんは運転に荷物持ちに子どもの面倒に奥さんの愚痴聞きと、大忙しで自分の休息なんて出来ないだろう。

 

自分には全く異次元の映像として見ていた。

 

というのも、自分が家族を持つ、つまり所帯を持つということがあまり想像できない。

 

その前に、誰かと一緒に3日間以上過ごす、ということがまず想像できない。

 

この離人症のような感覚を変えないと、所帯を持つのは無理なように思う。

 

離人症とは、自分の外の世界や自分自身に対する実感が薄れてしまう症状のことをいう。

自分が自己の体から一体性を失って体験されるような症状がある。それは、たとえば現実感がないといった抽象的な感覚から、自分が自分の体から離れて自分を見ているような体験まで幅がある。

具体的には、自我意識に関する訴えとして、 自分が存在する実感がない、自分が見知らぬ人間であるように感じる、自分が生きている感じがしない、など。

 

離人症ではないと思うけれど、一人が楽。

他人と一緒にいると常に気を遣っていないといけない気がして、休まらない。

家族からの頼まれごとでさえ、自分の時間が減るとなるとイライラしてしまう。

 

何事も基礎ができていないと応用はできない。

 

家族に優しくできなければ、恋人にも優しくできない。

 

 友達と一緒に楽しめなければ、恋人とも楽しく過ごせない。

 

職場の女の人と普通に会話ができなければ、恋人とも普通に会話ができない。

 

慣れていかないと、変えていかないといけないと思うけれど、我慢するのはなんだか違うような。

 

長い年月一緒にいる人というのは、その辺りを我慢しなくてもいい人であるべきで。

でも、そんな人は滅多にいるものじゃない。

 

具体的には、こちらにあまり干渉せず、自己完結できる人。かなりの度量(性格、時間の余裕)があってすべて許してくれる人。

 

干渉しないなんて、そんなの結婚とは言わないような。。

 

なんだか自分が異常者みたいに思えてきた。

内向型人間のすごい力

内向型人間のすごい力 スーザン・ケイン著 講談社文庫発行

を読んだので感想を。

 

人は内向型と外向型の性質を両方持っていて、どちらかの特性が強い。

 

内向型の人の脳はあらゆることに対して、外向型よりも高く反応してしまう。

外向型の人にとっては程よい刺激でも内向型にとっては過剰すぎるのだ。

 

外向型の人が休みを友人たちと賑やかな場所に出かけて高刺激を楽しむのに対して、内向型は一人またはほんの数人で静かな場所にて低刺激を楽しむのである。

 

また、外向型がスピーチや複数人との会話を楽しむのに対して、内向的は一対一のような会話を楽しむ。

 

最適なレベルの刺激がそれぞれ違うのだ。

 

それらは生まれ持ったものと後天的に身についたものが合わさってできた性質である。

 

いろいろな刺激に対して高い反応を見せる赤ん坊の多くは、思慮深く慎重な性格になり、低い反応を見せる赤ん坊の多くは、大らかで自信家の性格になる例が多い。

 

感受性の鋭さと強い心は表裏一体である。

 

先天的に内向型の気質を持った人は、内向的な人物に育つ可能性が高い。

 

高い反応を見せる内向型の子どもは、安定した家庭環境てきちんと育てられれば、低い反応の子どもよりも感情的問題を抱えることが少なく、社会技能にもすぐれる傾向がある。

そうでないと、鬱状態を引き起こして苦しい人生を送るリスクを高めるおそれがある。

 

高い反応の子どもについては、子育てに手間ひまをかければ、かけただけ報われる。良くも悪くも影響されやすいと言える。

 

成長しても、高い反応、低い反応の痕跡は消えない。変えるには限度がある。

 

今の世の中は外向型を重要視している。大きな声で主張する人は仕事ができる人として見る傾向がある。

 

しかし、内向型は外向型よりも注意深く考えるなど利点があり、決して外向型よりも劣っているわけではない。

 

 

内向型が外向型として振る舞うと、自分に嘘をついて過ごすことが多くなる。

 

自分ではない人間になることが成功への道だと言い聞かせる。これは自己否定である。

 

自己否定を続けると自分が何が好きなのか分からなくなってしまう。

 

内向型が自己を守るためには、自分の安心できる場所を確保すること、

子どもの時にやりたかったことや、自分の興味のあることを見失わないことが大切である。

 

また、一人で集中して考える時間が必要だと訴えること、イベントのために外出する回数は負担を感じない範囲に抑えること、

自分の特性に反して演技したら、そのかわりに残りの時間は自分自身でいるようにする「自由特性協定」を自分自身と結ぶこと。

 

 

以上が大まかな本の内容である。

 

私は内向型が強く出ていると思われる。

 

休日は家で一人で過ごしたいし、複数人の会話やスピーチが苦手である。

 

一人の時間、頭や気持ちを休める時間がないと、いっぱいいっぱいになる。

 

しかし、日本について言うと、外向型と内向型がほぼ半々か、少し外向型が多い程度なのではないか。

 

皆、細かいところまで気づくし、交渉も上手であり、スピーチも上手くて、気配り上手である。

 

自分の能力水準が低く、性格、能力が劣っているのではないかと思えてしまう。

 

自分がそういう人間なのでは、と気づけただけでも良かったが、日本の社会で解決するにはハードルが高い問題だと思われる。

私とは何か

私とは何か 「個人」から「分人」へ

平野啓一郎講談社現代新書出版

を読んだので感想を。

 

「個性」とは何だろうか。

 

著者は、人間というのは、唯一無二の「個人」でなく複数の「分人」から成っているとしている。

 

ある他者との間に生まれる私を「分人」という。

他者の数だけ「分人」がある。

また、「分人」とは、自分を複数の人格に分けたものである。

 

私の「個性」というのは、いろいろな私の中の「分人」が集合してできたものであり、流動的で複雑である。

 

例えて言えば、分人は分数のようなもの。

分母は自分の関係者の多さで変わる。

分子は相手との関係によって変わる。関係の深い相手との分人は大きく、関係の浅い相手との分人は小さい。

全ての分人を足すと1になる。

 

自分を変えるには、分人の構成比率を変えるしかない。つまり、つきあう人間を変えるということ。

 

分人を意図的に変え、自分に有益な環境にする。それこそがリスクヘッジになる。

 

分人は他者との相互作用の結果だから、ネガティヴな分人は、半分は相手のせい。

(ポジティヴもまた、相手のお陰。)

 

好きな分人があれば、その関係性を足場にして生きていけばいい。

 

また、愛するということも、分人の考えで言えば、「その人といるときの自分の分人が好き」という面もあると言える。

 

相手の存在があるだけで、私は私を好きになれる。これこそが愛だとしている。

 

以上が本の概要である。

 

 

 

読み終えて、この「分人」という考えはストンと腑に落ちた。

 

個性を持つよう、世間の常識のように言われてきた。特に自分は個性が無いと言われることが多かった。

 

では、個性を持つとは一体どうすればいいのかと悩んできた。

 

人生は他者との関わりの連鎖である。

 

自分が好きになれる分人を作るために、他者とコミュニケーションを取る。

 

自分一人で部屋にこもって考えて悩んでいたのでは、分人が固定され、個性は変わらない。

 

やはり、行動することに意味がある。

 

 

今まで個性という不確かなものに振り回されていたが、少し概要を掴んだような、そんな感じになれた本だった。

脳内改善

自分の状態を適切に判断することが、改善への一歩である。

 

自分の状態を表す状態としては、愛着障害と回避性パーソナリティ障害の2つがある。

 

回避性愛着障害と回避性パーソナリティ障害、どう違うのか。一緒なのか。

 

違うなら、どちらなのか。どちらにも属するのか。

一緒なら改善策も一緒なのか。。

 

愛着障害というのは、子どもの頃の愛情不足や行き過ぎた過保護等によって、人間不信や不安を生じ、他者との関係性の構築が適切にできないことである。

 

パーソナリティ障害は、両親の悪意ある批判、過保護、または両親の恐怖症的傾向が原因となって、自己否定から失敗を恐れ、人間関係においても緊張と不安から消極的になることである。

 

専門家ではないため、根拠はないが、どちらもあまり変わらないように思える。

自分では良好な人間関係を欲しているが、生まれ育った環境が、そうさせてくれない自分を作り上げた。。

 

調べていて、どうも、脳内のオキシトシンセロトニンという物質が他者より不足していることがあるらしい。

 

オキシトシンとは、愛情ホルモンといわれ、心の安定やストレスの緩和につながるという。

 

オキシトシンを増やすには、グルーミング(他者との直接的なふれあい)、家族での食事、人のために何かをするといったことで増えるそう。

 

また、セロトニン(幸せホルモン)は、朝日を浴びたり、適度な運動、十分な睡眠をすることで増えるという。

 

突き詰めていくと、結局、どんな名称であっても、やることは同じことに集約されていく。

 

・適度な運動

・早寝早起き、十分な睡眠

・バランスの良い食事

・本音の言えるコミュニティに所属する

・家族との触れ合いの時間をつくる

・専門家(カウンセラー?)の意見を聞く

・趣味、習慣を持つ

・ネットやスマホから遠ざかる

 

考えているだけでは何も変わらない。

実行に移さなければ。。 

結婚の意味

30代を迎えてしばらく経つが、結婚が現実味を帯びてこない。

 

結婚の意味、パートナーを作る意味を明確にしないと自分の気持ちが結婚に向かないと思われる。

 

結婚の利点とは何だろう。

 

 1人でいる利点とは、

・他人である配偶者と意見調整をしなくてもよい。

・配偶者の生活(費用、手間、時間)の負担をしなくてもよい。

 

では欠点はと言うと、

・病気や怪我のときに日常生活が大変困難になる。

・触れ合いがないため、自己完結するようになる。(精神的な孤独)

・子供を持つことができない。(ここでも病気や怪我が大きな支障になる)

・世間体が良くない。

 

結婚の利点とは、

・日常の物事や感情を共有する事ができる。

・互いに不足を補い合うことができる。

・触れ合いを通して安心感を得ることができる。

・子供を持つことができる。

・世間からのある程度の承認が得られる。

 

結婚の欠点とは、

・自分の時間、費用が減る。

・精神的な負担(価値観の相違の受け入れ、配偶者との衝突、費用面などでの悩み)が増える。

 

自分の中で何が障害になっているかと言えば、

・精神的な負担

であると思う。

 

価値観が極端に違う場合、合わせることに疲れてしまうだろう。

価値観が合う場合、それは相手も孤独を好むため、結論として互いに孤独でいた方が良いことになってしまう。

 

また、自分の感情のもやもやの中に、「他者と触れ合う」ということに対する嫌悪感がある。

 

ドラマの中のような「家族お芝居」にむず痒さを感じる。

 

ドライな家族でいたいのだろうか。

 

結婚の利点である

・日常の物事や感情を共有する事ができる。

・触れ合いを通して安心感を得ることができる。

という2点も私にとっては難しく、欠点になってしまうと思われる。

自分の価値観で話しても理解してくれず、共有できないと思うからである。

触れ合いで安心感につながりにくいからである。

 

では、どうすればよいのか。。

 

回避性愛着障害の人は、配偶者に愛着基地としての役割のみを求める。

 

進んでサポートに回るような献身的で自己犠牲をいとわないような人が適しているという。

 

また、興味が共通していることも上手くいくポイントである。

 

聞き役に徹してくれることで、回避性愛着障害の人は精神的な負担が減り、次第に内面の葛藤を話すことができるようになり、感情の共有、触れ合いから来る安心感を得ることができる、のではないかと考える。。

 

しかし、こんなパターンは世間的に少なく、本当にそんな「聖母のような」特殊な人がいるのかと思えてしまう。

 

気持ちを言えるようになる前に、相手が冷めてしまうのが普通である。

 

ここまで考えて、一巡してふと思う。

そこまでして結婚する意味とは。。